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東京地方裁判所 平成2年(ワ)1615号 判決

原告 永野亮子 外2名

被告 今井一秀 外3名

主文

一  原告らと被告らとの間で、東京法務局所属公証人甲山一郎作成にかかる昭和62年第305号遺言公正証書による亡今井久仁子の遺言は無効であることを確認する。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文と同旨

第二事案の概要

一  争いのない事実

1  今井久仁子(以下「久仁子」という。)は平成元年9月29日死亡した。

2  (当事者の身分関係)

(一) 原告石田守(以下「原告守」という。)、同石田明美(以下「原告明美」という。)は、それぞれ久仁子といとこ(四親等血族)関係にあり、原告永野亮子(以下「原告亮子」という。)は、同守の姉である岸洋子の2女であって久仁子とは5親等血族の関係にある。

(二) 被告今井一秀、同今井三智代は夫婦であり、同今井典子、同荒木正広はそれぞれ右被告夫婦の長女、長男であるが(以下それぞれ「被告一秀」、「被告三智代」、「被告典子」、「被告正広」という。)、被告典子については昭和61年11月6日に、同一秀、同三智代については昭和62年1月30日に、それぞれ久仁子との間の養子縁組届出がされている。

3  久仁子は、昭和58年10月20日、東京法務局所属公証人○○○○○作成にかかる昭和58年第1126号遺言公正証書により遺言をした(以下「第1遺言」という。)。その大要は次のとおりである。

(一) 原告亮子に別紙物件目録〈省略〉一1記載の建物を、被告一秀に同目録一2記載の建物をそれぞれ遺贈する。

(二) 原告亮子と被告一秀に、別紙物件目録2記載の土地を、それぞれ共有持分の割合を2分の1として遺贈する。

(三) 原告守に○○株式会社の株式を遺贈する。

(四) 原告明美に○○銀行○○支店の銀行預金を遺贈する。

(五) 弁護士○○○を遺言執行者に指定する。

4  久仁子は、昭和62年3月23日、東京法務局所属公証人甲山一郎作成にかかる昭和62年第305号遺言公正証書(以下「本件遺言公正証書」という。)により遺言をした(以下「本件遺言」という。)。その大要は次のとおりである。

(一) 東京法務局所属公証人○○○○○作成にかかる昭和58年10月20日付け遺言公正証書による遺言(第1遺言)を取り消す。

(二) 被告一秀に別紙物件目録一1、2記載の建物2棟を相続させる。

(三) 被告ら4名に別紙物件目録2記載の土地を、ぞれぞれ共有持分の割合を4分の1として相続させ、又は遺贈する。

(四) 被告一秀に株式、預金その他一切の動産を相続させる。

(五) 弁護士乙川茂を遺言執行者に指定する。

二  争点

昭和62年3月23日久仁子が本件遺言をした時、久仁子に遺言を有効になしうる意思能力がなかったか。

1  原告の主張

久仁子は、昭和61年ころからいわゆるぼけの症状をきたし始め、ボールペンで歯磨きをする、タイガーバームをなめる、昼夜を取り違えて夜中に外出したがり近所の店に行って店の人を起こす、家の外に出られないように鍵をかけると傘で玄関のガラス戸を叩く、靴下を片方ずつ取り違えてはく、人が訪ねてきてもじっとしていられず「勤めがあるので失礼します。」と言って立ち上がる、白内障で入院中、冷蔵庫にあった他人の食べ物を食べるなどの行動があった。そのため久仁子は、昭和61年11月6日○○○○○○○医療センターに入院し、その入院中に本件遺言をしたものであるが、入院後も、夜中に起きて化粧を始めたり、ナースステーションの前の植木の葉をつまんで食べるなどの行動が続き、原告らが見舞いに行ったとき、原告らを判別できず話も全くできない状態にあるなど、意思能力を喪失していた。

本件遺言は、久仁子が意思能力を喪失していた状態のもとでされたものであり、無効である。

2  被告の主張

本件遺言は、久仁子の正常かつ明瞭な意思のもとにされたものであって、久仁子は、本件遺言作成当時意思能力を喪失してはいなかった。

第三判断

一  本件遺言公正証書の作成経過

前記争いのない事実に加えて、証拠(甲1、2、9、10、乙1ないし3、8、証人甲山一郎、原告亮子本人、被告三智代本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の各事実を認めることができる。

1  久仁子は、明治42年11月11日に生まれたが、同年12月13日に石田サチ(原告守及び同明美のおば)と養子縁組した。久仁子は、学校卒業後、外務省等に勤務し、生涯独身で、昭和27年母が死亡した後は、自宅で一人暮らしをしていたが、昭和31年ころから、久仁子の友人である乙川一茂の紹介で、同人の部下の被告一秀(当時の姓は「荒木」)が下宿するようになり、昭和35年ころから、被告一秀を跡取りとする意向を持つようになった。そして、久仁子は、昭和40年5月被告一秀が同女の遠縁にあたる被告三智代と婚姻した後は、自宅敷地内に新築した建物(別紙物件目録一2記載の建物)で被告一秀夫婦と同居し、その後出生した被告典子、同正広らも加え、家族同様の生活を続け、昭和49年に外務省を定年退職した後は、自宅で生け花の師匠をして暮らしてきた。

2  原告亮子は、久仁子を年に1、2度訪ねる形で交際を続けてきたものであるが、久仁子は、昭和58年10月20日、弁護士○○○及び司法書士○○○○を証人として第1遺言をした。

3  久仁子は、昭和61年11月6日、○○○○医療センターに入院したが、同日久仁子と被告典子との養子縁組届出がされ、次いで、翌昭和62年1月30日、久仁子と被告一秀、同三智代との養子縁組届出がされた。

4  本件遺言遺言公正証書は、久仁子が○○○○医療センターに入院中作成されたものであるが、被告一秀、同三智代が、前記乙川一茂の甥である弁護士乙川茂(以下「乙川弁護士」という。)に遺言内容を伝え、同弁護士において、これを文章化した上、昭和62年3月中旬ころ公証人甲山一郎(以下「甲山公証人」という。)に対して遺言書の右文案を持参して遺言公正証書の作成を依頼した。その際乙川弁護士が遺言者は自署が困難である旨伝えたところ、甲山公証人から診断書の提出を求められたため、同弁護士は、同月20日久仁子の主治医である○○○○医療センターの北島克明医師より診断書の交付を受け、そのころこれを同公証人に提出した。右診断書には久仁子の病状について「老年痴呆は夜間譫妾を伴い、自用を弁じ得ない状態にある」と記載されていた。

5  甲山公証人は、昭和62年3月23日、乙川弁護士の文案に沿って作成しておいた遺言公正証書案3部を持って、久仁子が入院中の○○○○医療センターに赴き、医師、看護婦ら病院関係者に久仁子の病状について特に確認することなく、同女の病室に入った。

病室には、久仁子、乙川弁護士の他、証人として同弁護士の法律事務所事務員の○○○○及び前記乙川一茂が入室した。久仁子は、ベッドの上に半身を起こしていたが、甲山公証人に対し、「お世話になります。」と挨拶をした。同公証人は、久仁子の態度に格別の異常さを感じなかったため、遺言書作成の手続きに入った。

甲山公証人は、持参した遺言公正証書案3部のうち1部を久仁子に、もう1部を証人2人に渡し、残りの1部を自ら持って、逐条毎に読みながらその内容を説明し、久仁子の確認を得ながら次に進み、一とおり説明し終わった後、総括的な確認を得た上、改めて最初から通して読み聞かせ、再度確認した。甲山公証人は、久仁子に一応自署を求めたものの、同女が自署することができなかったため、同女の署名を代書してその旨証書に記載し、同女の了解を得た上その印鑑を押捺した。これら一連の手続きは、甲山公証人が通常公正証書を作成する際の手順と別段変わることなく進められ、同公証人は、手続の開始から終了までの間、久仁子が遺言内容を理解しているかどうかについて特に疑念をさしはさむことなく手続を進行させた。そして、20分程度して手続が終了した後、久仁子は甲山公証人に対して、お礼の挨拶をした。

本件遺言の内容は、別紙遺言目録〈省略〉記載のとおりである。

二  本件公正証書遺言作成前後における久仁子の病状等について

証拠(前掲各証拠、甲13の1ないし18、14、15の1ないし4、証人北島克明)及び弁論の全趣旨によれば、以下の各事実を認めることができる。

1  久仁子は、昭和58年ころから、手の震えなどのパーキンソン症候群が顕れ始め、昭和61年8月には手の震えが激しくなって字が書きにくくなり生け花師匠としての事務処理が困難となって生け花師匠をやめた。

同年九月ころからは、夜間不穏、失見当識が目立ちはじめ、夜間徘徊したり、外出して自分の家が判らず帰れなくなったり、多弁になるなど異常行動が現れ、肝硬変や食道静脈瘤、尿路感染症、パーキンソン症候群等の疾病及び腰痛を訴え歩行不安もあったことから、久仁子は、かかりつけの医者の紹介により、同年11月6日、○○○○医療センターに入院した(なお、久仁子は、昭和62年4月1日同病院を退院して同日○○県○市所在の○○病院に転院し、平成元年9月同病院で死亡した。)。

2  久仁子は、精神科に入院したが、入院直後は、発熱・脱水症状があり、独語が多く多弁であり、徘徊も頻繁で病室でもひっきりなしに手を動かして落ち着かず、老年痴呆に譫妾タイプの意識障害が加わった症状であると診断されて鎮静剤等の投与を受けた。

久仁子は、同年11月末ころから、食堂まで歩いていって食事を摂り、同年12月初めころよりポ一タブル便器を使用し始め、また、「ひとりで病室にいるとさみしくなってしまうんですよ。」などの会話もし、食堂でも他の患者に話しかけるなどの態度を見せることもあったが、その一方で、独語したり、多動多弁で、自室内のみならず、廊下や他の患者の部屋、ナース・ステーション等を始終歩き回るほか、床等に放尿したり、着衣を脱いだり、浴衣のひもを頭に巻いたり、植木鉢の植本の葉を食べるなどの行動がみられた。また、意味不明の発言が少なからずあったほか、現在の居場所についての見当識がなく、鏡に写った自分の姿が自分であることを認識できない上、漢字を見てもそれを偏と旁に分けて読んでしまうなどの状態が見られた。

3  久仁子は、昭和62年1月3日に、年末年始の一時帰宅を終えて病院に帰った後も、相変わらず多動多弁で、看護婦の後をついて回り、その際もしゃべり続けていることが多かった。また、自分の食事が終わった直後、何も食べていないと主張して、他の患者の食事に手を伸ばそうとしたり、植木鉢の葉や洗面所のスポンジを口に入れたり、洗面所で歯磨きをしてまわりを水びたしにしたり、眼鏡を上下逆さにかけていたり、植本鉢の花を引き抜いたり、部屋に落書きをしたり、看護婦の後ろについて回っているとき部屋に帰るように指示されると「私どうしたらよいかわからない。」といって廊下をウロウロしたり、床やごみ箱に放尿したりするといった異常な言動が見られた。

4  昭和62年2月以降も久仁子の病状に改善は見られず、床への放尿、排便や徘徊などのほか、花、植本鉢の葉を食べたり、ポータブル・トイレに溜まっていた尿を病室の床にひっくり返し床にしゃがみこんで床をたたくなどの異常行動も継続し、また、眼鏡やビスケット等が何かもわからない状態(錯語、健忘失語)になり、記憶障害も顕著になった。

なお、このほか、本件遺言公正証書作成前の久仁子には、同年3月4日にはパンツだけで廊下を歩き、同月11日にはトイレットペーパーを食べ、同月16日には下半身を脱衣して部屋の中をウロウロするなどの行動をし、同月19日にはお茶や吸い物を含む夕食を手掴みで食べるなどの異常行動が見られたばかりではなく、このころには同女は自分の署名をすることもできない状態になっていた。そして、本件遺言公正証書作成の翌日である同月24日にも、手掴みでカステラを食べた後、皿をどこへ置けばいいのかの判断ができなかったほか、病室外の子供の声にいちいち答えるなど反応にとりとめがなく、また、久仁子の担当医師が病室に在室していてもそのことを意識しない状態であった。

5  久仁子の主治医の北島医師は、以上のような久仁子の病状の経過から、同女の病名はアルツハイマー型老年痴呆であり昭和61年9月ころから急速に進行したものと診断した上、同女の病状は、昭和61年11月6日の入院当初は、右老年痴呆の上に意識障害の一タイプである夜間譫妾がかぶさった状態にあったため、夜間に騒いだり徘徊したりする症状が頻発していたところ、入院して向精神剤の投与などの治療を受けた結果、意識障害の一つとしての譫妾による症状は軽快していったものの、痴呆は進行を続けて徐々に精神能力は低下し、昭和62年1月ころには右痴呆の全4期のうち第2期にあり、同年2月中旬ころには第2期が完成した段階に達しており、長谷川式簡易機能診察スケールによるテストもできない状態で、判断力、理解力は4、5歳程度であると診断していた。そして同医師は同年3月20日には、久仁子は「自用を弁じ得ない状態」すなわち自分の意思をはっきりわきまえることが障害されている状態に至っていると診断し、同月末の転院のころには、同女は重度の痴呆状態であると診断した。

三  本件遺言公正証書作成時における久仁子の意思能力について

そこで、前記認定の事実に基づき、本件遺言公正証書が作成された時における久仁子の意思能力の有無について検討する。

1  前記認定の事実によれば、久仁子には、昭和61年11月6日に○○○○医療センターに入院した当時、アルツハイマー型老年痴呆と夜間譫妾による意識障害による異常な言動が見られ、その後、次第に夜間譫妾は消失したものの、アルツハイマー型老年痴呆の急速な進行により記憶障害、理解力、判断力の低下が著しく、痴呆による異常な言動は同年3月末まで消失しておらず、同女は昭和63年3月20日ころには自分の意思をわきまえることが障害されている重度の痴呆状態であったことが認められ、この認定事実に本件遺言が前記のとおり必ずしも単純な内容のものではなかったことを併せ考えると、久仁子は、本件遺言公正証書作成当時、本件遺言をするために必要な行為の結果を弁識、判断するだけの意思能力を欠いていたものと認められる。

2  もっとも、前記一のとおり、本件遺言公正証書作成時の状況をみると、久仁子は、甲山公証人に対して手続の最初と最後に一応の挨拶をし、また、同公証人の行う遺言内容の確認に対して応答しており、さらに、同公証人は、作成手続中に同女の意思能力に疑問を持たなかったことが認められる。しかしながら、北島医師の証言によれば、当時久仁子がおかれていたアルツハイマー型老年痴呆の第2期の状況の下においても、人間的な接触は可能で挨拶程度はできることが認められ、また、甲山公証人の証言によれば、本件遺言公正証書の作成に要した時間は20分程度であったこと、その作成時において久仁子は単に頷いたり、「はい」という返事をした程度であり、それ以上の具体的な説明、発言をしていないこと、さらに、甲山公証人は久仁子の自署能力については懸念をもっていたものの、意思能力については、北島医師の作成にかかる診断書中の「自用を弁じ得ない状態にある」との記載を同女に夜間に失禁がみられるとの趣旨であると誤解するなどして、判断力に問題はないとの認識で本件遺言公正証書の作成手続に入ったことが認められ、これらの事実に照らすと、本件遺言公正証書の作成時に久仁子が前記の応答をしたこと及び甲山公証人が同女の意思能力に疑問をもたなかったからといって、前記1の結論を覆すに足りないと言わざるを得ない。

また、乙第7号証は、久仁子が入院中の昭和62年2月22日及び同年3月15日に、同女の病室で同女と被告一秀及び同三智代の間で交わされた会話を録音したテープを反訳した書面として提出されたものであるが、それが被告ら主張の日時に録音されたものであることを裏付ける証拠はなく、また、その内容をみても、会話の大部分は被告一秀が話をし、久仁子がこれに対して簡単に答えている程度のものであるから、右乙号証も、前記1の認定を覆すに足りるものではない。

さらに、乙第一号証も前記1の認定を覆すには足らず、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

3  以上のとおり、久仁子は、本件遺言公正証書作成当時、アルツハイマー型老年痴呆により記憶障害及び理解力、判断力が著しく低下した状態にあり、本件遺言をなしうる意思能力を有しておらず、本件遺言は無効である。

以上によれば、原告らの請求は理由がある。

(裁判長裁判官 安倍嘉人 裁判官 金村敏彦 中山節子)

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